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賢治さんたちに会いに~映画『銀河鉄道の父』を観る~ [日々雑録]

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Ora Orade Shitori egumo

今夜は久々にこの言葉を反芻しています。




作家・宮澤賢治が遺した物語を、映画や演劇にした作品はいっぱいあります。
賢治の人生を描いた作品もいっぱいあります。
でも賢治周辺の人々を真ん中に据えて描いた物語はあまりありません。
(あったかも知れないけれど、僕は出会いませんでした)。

若くして死に別れた賢治最愛の妹、トシさんを主人公にした作品を創りたい、
20年前、僕はなぜだかそんな想いでいっぱいになりました。
だって賢治が遺した物語は、彼のまわりの人々や
岩手の大自然がもとになって生まれてきたんだということが、
どの作品を読んでもイヤというほど分かるから。
そして『葡萄酒いろのミストラル』という舞台作品を書きました。


今回の映画『銀河鉄道の父』は、
賢治やトシのお父さん、政次郎(まさじろう)さんが主人公の物語。
つまり、『葡萄酒いろのミストラル』とちょっと似てるんです。

「宮澤家の空気を感じることで、賢治の作品世界を感じる。」

間接照明的なコンセプトがとても僕には合っています。



お父さんの政次郎が主人公ですから、
賢治は脇役として登場します。そして途中退場する妹のトシも。
トシの物語を書いた僕としては、やはり無意識に彼女に意識が行きます。

トシを演じた森七菜さん、最近ではドラマの現場で
いいように使われている気がして切なかったのですが、
久々に彼女の本領を拝んだ気がしました。
そして祖父喜助を演じた田中泯さんは文明溢れる今の時代を生きている現代人なのに、
いつも昔の人に見えるのはなぜなのだろう。
あのような異彩を放つには絶対に何か訳がある。
表現には、出そうと意図しなくても、その人の生き方が滲み出てくるもので、
むしろ出したくないものまで出てくるもの。
僕の場合は、演技をしてくれる俳優たちがオモテに出てくれるけど、
脚本や演出にも間違いなく滲み出るものがあるのでしょう。
表現を突き詰めてゆくと、それは操縦不能なのものかも知れません。


そんな素敵な俳優たちが演じた宮澤家の人々。
質屋という特異な環境であるにもかかわらず、
どの家庭にも通じる普遍性が描かれていて、序盤から心に沁み入るものがありました。

賢治は宮澤家のなかでは巨大台風みたいな存在で、
「台風」の妹トシは、ギラギラの太陽みたいな存在だったのかなあ。
僕が想像する賢治とトシの印象は昔からそんな感じです。
この映画を観た後、僕の頭は20年前に書いた作品に込めたトシへの想いでいっぱいになりました。


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すみません、ここから先は作品に込めた賢治やトシへの想いばかり書き連ねてしまいそうです。
「作品」というのは『銀河鉄道の父』じゃなくて『葡萄酒いろのミストラル』です。。
『銀河鉄道の父』の感想を探していた方、大変申し訳ありません( *´艸`)


舞台作品『葡萄酒いろのミストラル』は、
犬に生まれ変わったトシが、兄賢治に会いに行く冒険物語。
物語のオープニングシーンとラストシーンで二度、

「大丈夫、どこまでも走れるよ、私は一人じゃないもの」。

という台詞が出てきます。
実はこの台詞、トシがいよいよその命を終えようとした時に遺した、
「おら、おらで、ひとりでいくも。」という言葉から来ています。

賢治の弟・清六さんの著書では「トシは内気で穏やかな人だった」とあるように、
トシは品がよく嫋やかな女性像で描かれることが多いのですが、
けっしてそれだけの人ではないと僕は思っています。
その理由のひとつが、臨終のときのこの言葉。

「おら、おらで、ひとりでいくも。(私は私で一人でいきます)。」

あまりにも早く訪れた自分の死に対して毅然と向き合うトシの姿が浮かびます。
「私は一人じゃないもの」と「ひとりでいくも」は一見真逆の意味に思えますが、
家族に向けて「ひとりで行く」と言えたトシは、
「つまり自分は一人じゃない」という気持ちがあったからではないか、
そう思うわけです。飽くまで僕なりの解釈ですが。



そもそも「どうして宮澤トシが犬なの~?」と思う人もいるかも知れません。
実は犬なのにも理由があって、その突飛な設定は、

「今度生まれてくるとしても、こんなに自分の体のことだけで苦しまないように生まれてきます」

というトシの言葉から来ています。

つまりトシは「丈夫な体に生まれて、もっと人のしあわせのために尽くしたかった」と。
そうであるなら、純粋無垢な動物である犬こそトシのこの想いにぴったりなのではないかと。





そんな想いを込めて書いたのが『葡萄酒いろのミストラル』です。
何よりも、早くに離ればなれになってしまったトシと賢治が、
会いたいときにいつでも会いにいけますように、という願いを込めて、
僕は20年前にこの兄妹の物語を書いたんだっけ、ということをふと思い出したのでした。

映画そっちのけで、自分の作品大好き人間みたいな文章を書いてしまいました…(´Д`)
実際そうかも知れませんけど、それ以上に物語を通して、
岩手の大自然、そこから生まれた宮澤賢治の作品、
そこで生きた人たちの想いを伝えたい、という気持ちが今でも一番強いです。


賢治はとても魅力的で才能溢れる類い稀な人でしたが、
彼が遺した輝かしいいくつもの作品群は
彼とともに生きた人々と故郷の自然が創ったものだ、
とあらためて感じたほんとうに素晴らしい映画でした。
宮澤家を覗き穴から覗いているような、そんな気持ちになりました。
あと5回くらい観たかった~。


また大好きな花巻へ帰りたいな。
そして、いつか『葡萄酒いろのミストラル』を岩手で上演し、
賢治さんはじめゆかりの方々に捧げたいと、心からそう思います。

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